プロフィール

はじめまして。

安田 夏那心(やすだ かなみ)と申します。

最初に、私の自己紹介をさせていただきますね。

 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 

北海道で生まれる。

幼少期は活発だったが親の期待を察し、

いい子で優等生として振る舞っていた。

 

小学5年 

入学してからずっと優等生として

振る舞っていたある日、

同級生が遊んでふざけている輪に

入れなくなっていることに気づく。

 

学生時代 

徐々にやる気を失い、

成績はどんどん下がっていった。

しかし友人の輪に入れない状態は続き、

いつも孤独感や虚しさを抱えていた。

 

20代前半 

看護師として働き出す。

周囲に気に入られる同僚と比べ、

先輩に可愛がられることもなく、

職場で馴染めない状態は続く。

虚しさはパチンコなどで埋めていた。

 

20代後半 

親の意向を察知し20代のうちに結婚。

当時、付き合っていた彼を振り、

世間体のいい職業の男性と結婚する。

 しかしあっという間に結婚生活が破綻。

 

30代前半   

その後付き合った人から

お金を無心され、経済的にも心理的にも

 窮地に追い込まれる。

誰にも相談できないまま、結局、

相手の自死という衝撃的な結末を迎え、

自分も痛手を追いながらも

一連の出来事からは解放される。

このことをきっかけに、

生き方を見直すために

カウンセリングを学び始める。

 

30代後半  

看護師としての仕事に本腰を入れ、

がん患者ケアに関心を向ける。

がん治療期〜終末期の看護にあたる。

消化器病棟、緩和ケア病棟、ホスピス等で勤務。

死の不安や人生の未解決の問題を

抱えている方へ向き合う機会が多くなる。

 

40代後半  

勤めていたホスピスが閉鎖したのを機に

訪問看護に従事し、在宅での看取りを経験する。

また、がん患者以外の幅広い疾患の方にお会いし

難病や障がい、精神疾患をお持ちの方の

看護も経験するようになる。

同時期に姉が難病になる。

そのことをきっかけに

自分自身の未解決の問題もまた噴出し

向き合うことを余儀なくされる。

 

50代〜   

新たに心理カウンセリングに出合うことで、

心の奥に沈下した思いを

癒やす方法にたどり着く。

同時にわだかまりのあった姉との距離を縮め、

姉の心の傷を癒やしている。

どんな状況でも自分自身を受容し

今を生きる力を見い出せるよう

心理カウンセリングを通してサポートを始める。

 

 

〜より詳しいプロフィールはこちら〜 

【いい子の仮面】

私は4人家族、1歳違いの姉がいる

次女として生まれました。

幼い頃から活発で、

おとなしい姉を負かしてしまうことが

多かったようです。

姉は何か困難なことがあると

すぐに病気になり、

学校を休んだり入院するという体質でした。

気持ちも弱く、何かにつけ

挫折を繰り返していました。

そんな姉が母から叱咤されたり、

あきれられるのを見て、

私はそうはならないと

幼いながらに決意していました。

母に気に入られるような振る舞いや

成績を得ることで、母の機嫌を保つ役割を

果たしていたのだと思います。

自分の意向よりも母の気持ちを優先していました。

一方、父からは私は姉に比べて

「わがまま」で「自己中心的」だと思われていました。

ことあるごとに、たしなめられていたことが

記憶に残っています。

 

【感情が薄れ、生きる虚しさを感じる】

母の意向、父の意向を気にし、気に入られるよう

必死に振る舞っていた幼少期〜学童期を経て、

 思春期にさしかかる頃、私は友達の輪に

入れなくなっていることに気が付きました。

一緒にふざける・遊ぶ、ということが

どうしてもできなくなっていたのです。

ふざけている友だちは、とても楽しそうです。

私も楽しみたい。

でも、それがどうして楽しいのかわからない。

楽しいという感覚が薄れていたのです。

同時に、他の感情も薄れ

何をしても虚しい。何のために生きるのかわからない。 

そんな考えも膨らんで、

中学の時にはすでに

死にたくなるような気持ちにかられていました。

何のために生きているかわからないが

私が死ぬと親が悲しむ。

その理由だけで

死にたくなる気持ちを思いとどまったのです。

ただ、私の苦しみは親に見せたことはありませんでした。

両親を悲しませないために、

いつも問題のない自分として両親の前に立つこと、

そして死なないこと。

本音を出せないまま、

一人で苦しい気持ちを抱えていました。

 

【パチンコでの穴埋め】

看護師として就職すると、

人間関係のコンプレックスがより一層刺激されました。 

愛嬌のある素直な同僚が医師や先輩に可愛がられたり

飲みに誘われる一方で、

私はあまり可愛がられることもなく、

冗談めいたふざけた話しの輪にも入れない。

寂しさが募りました。

仕事にもやる気を見いだせず、

虚しさをパチンコで紛らわすようになりました。

仕事以外は四六時中パチンコのことを考えるようになりました。

 

 

【世間体を気にした結婚とスピード離婚】

そんな時、世間体のいい職業の方と

知り合う機会がありました。

それまで付き合っていた人は、きっと親は反対するだろう

と思い、結婚に踏み込めなかったのです。

その人のことは両親も喜ぶに違いないと思い、

短期間で結婚を決めました。

ところが、職業やお金などにとらわれた結婚が

うまくいくはずもなく、

あっという間に破綻に追い込まれました。

 

 

 

【心機一転でさらに地獄のような日々】

その後、職場も変え心機一転したつもりでしたが、

仕事ではさらに辛い毎日でした。

ちょっとした憧れから手術室勤務を希望したものの、

全く自分の性分に合わず、

神経がすり減るような毎日でした。

緊張感から記憶力も判断力も低下し、

自分のできなさに自己嫌悪がさらに募りました。

職場の人間関係も上手に築くことができず、

苦しいままでした。

そんな中、ある男性と知り合いました。

気さくでとても楽しい人でした。

相手といると日常のストレスが紛れ、

惹かれる気持ちになりました。

が、表面は明るく気さくでも、

人の弱さにつけ込むのが上手く、

いろいろな理由でお金を無心するようになりました。

私は相手が困っていることを知ると、

本心では警戒していても

つい助けを出してしまったり、

頼まれると嫌々ながらもお金を貸していました。

相手にどんどん借金が膨らんでいくのを知りながら、

私もお金を失い身動きが取れずにいた時は、

まさに地獄にいるような心境でした。

なぜこのような事態になってしまったのだろう。

自分でも信じられず、同時に、

解決の糸口が全く見えない

真っ暗闇にいるように思いました。

ある日、相手が自死しました。

深刻な事態であるとは思っていましたが、

そこまでのことは想像だにしていなかった私は

大変なショックを受けました。

その人にもし誠実さがあるなら、

命を絶つのではなく、

お金を返さなくても関係者誰の目に触れなくても、

世界のどこかで生き、心を入れ替えてくれた方が

よほどましだと感じました。

 

【自分の生きづらさに向き合う】

私は、常々どこかおかしいと感じていた

自分自身の生きづらさにも向き合うために

カウンセリングを学び始めました。

そこはクライエント中心療法が主体の場所でした。

 

始めて半年ほど経った研修会でのことです。

苦しみや悲しみ、喜びといった感情が

生き生きと語られる様子を見て、

とめどなく涙が溢れてきたことがありました。

人がとても眩しく見え、感動したのです。

どの人の中にも輝くものが必ずあること、そして、

私自身にも抑え込まれていた感情や、

これまで流してこなかった涙がたくさんあることも、

初めて知りました。

 

ある時、

「目の見えない自分は、みっともない、恥ずかしい」

という思いを語られた女性がいました。

私はその方の気持ちを受け止めながら、

涙が止まらなくなりました。

思いもよらないことだったのですが

決して同情ではないことは確かでした。

後になり「みっともない。恥ずかしい」と

私自身が自分に対して

言語化に至らないまま思っていたものが、

彼女の言葉によって刺激され

溢れ出てきた涙だと感じました。

このように、自覚に上っていてもいなくても、

自分を否定する思いの重なりが

私の生きづらさの原因なのだとわかりました。

現実のさまざまな出来事を通して

湧き上がるネガティブな感情を、

カウンセリング学習の中で語り、向き合い、

その都度消化していくことを私は繰り返していきました。

 

【病気で旅立つ人に寄り添う】

その後、私は興味のあった内科病棟へ移りました。

がん患者の診断から治療、看取りまで看る病棟でした。

私は職場の人間関係は苦手だったものの、

患者さんとの関わりは不思議なくらい

無理なく築くことができました。

そんな中、人生で未解決な思いを抱えたまま

旅立とうとする方に、

寄り添う時間を多く持つ必要性を感じました。

ある40代の女性は、

まだ学生のお子さんが2人いるシングルマザーでした。

かなり気丈な方でしたが、

自分の残り時間が少ないとわかると

痛みと不安でナースコールが頻回になりました。

私はできるだけ多く彼女のもとに行き、

特に夜勤の時は、眠りにつくまで

側にいる時間を多くもつようにしました。

彼女はご主人をある理由でどうしても許せず

離婚したそうですが、

本来はとても温厚で優しいご主人だそうです。

まだ学生のお子さんは今後

元のご主人に託すしかない状況でしたが、

許せない思いとの葛藤で苦しんでいました。

その思いを夜勤の時に度々お聞きしました。

そのうち、彼女の様子に変化がみられました。

面会に来る元ご主人に甘え、

自分の身も委ねるようになっていったのです。

元ご主人は変わりゆく彼女を

最期までしっかりと支え、

子育てのバトンを引き継がれました。

最期の彼女の顔はとても穏やかなものでした。

その病棟では、いろいろな思いで旅立つ方や、

そのご家族に関わる機会を

たくさん持たせていただきました。

ただ一方で、

急性期の方、認知症やせん妄状態の方など

さまざまな方がおられたため、

寄り添う時間を持つことがなかなかできないという

ジレンマを常に抱えていました。

そのため緩和ケア病棟、

ホスピスへと職場を変えました。

 

 

【抑えていた怒りが急浮上】

その後数年、仕事に真剣に従事する中、

ある出来事がありました。

それは、お盆に実家に帰省した時のことです。

まだ小学生の子供のいる姉が、

股関節が痛いとのことで

かなり動きが悪い状態で帰省しました。

姉の方が実家に近く、

両親とは孫である姉の子供の行事などを通して、

いろいろなやり取りをしています。

私自身は独身で、両親とはなかなか会うことも

連絡することもない距離感でした。

同時に帰省した際、母は姉をしきりに気にしました。

話題にするのは、姉の体の調子のこと、

姉の子供や嫁ぎ先のことなど、

姉にまつわることばかり。

母から久しぶりに会う私に

関心を向ける言葉は一切出てこなかったのです。

そしてそれは意図的ではなく、

無意識のうちに

母が取っている行動であることも感じました。

その時、私は得も言われぬ寂しさと悲しみ、

怒りがむくむくと湧き上がるのを感じました。

これまでも両親に対しての

不満や怒りは自覚していましたが、

それを上回る感情です。

怒りが自分の中で暴れまわり、

誰かに話しても話しても収まら

とうとう顔にも体にも湿疹として現れるほどでした。

これまで解決されていなかった感情が、

かなりの時を経て浮上してきたのです。

私はこんなにも両親に迷惑や負担をかけずに生きているのに、

具合が悪いというだけで、

親から気持ちも手助けも貰える。

子供の頃から弱い姉に両親の関心が注がれ、

頑張っているつもりの自分には注がれない。

そんな悔しさや寂しさが入り混じった、

何とも子供じみた感情でした。 

 

そのことがきっかけで、

継続していた傾聴主体のカウンセリングに加え、

より踏み込んだ形での癒やしの方法を探し、

心理カウンセリングに出合いました。

そこではこれまで以上に

自分の気持ち苦しさのメカニズムを理解し

子供の頃から抱えていた感情と向き合うことができました。

そして、自分で自分の気持ちをいたわる方法を学び

本来の自分で楽に生きることが

できるようになりました。

 

【難病の姉の苦しみに徹底的に寄り添う】

間もなく、姉の病気が単なる関節の問題ではなく、

全身を侵す難病であることがわかりました。

それはかなりの痛みを伴い、

苦痛のために

自死してしまうケースもあるほどの病気でした。

それまで姉とは心の隔たりがあった私でしたが、

姉が自ら死を選ぶなどの悲劇は

絶対に避けたいと思いました。

ただ私は遠方のため、直接体の痛みを和らげたり、

姉のできないことを手助けたりすることはできません。

私にできることは

これまでの自分のわだかまりは横に置き、

姉の気持ちに寄り添うことでした。

体の痛みや制限される日常生活、

希望の見えない辛さなど、

姉の苦しみに徹底的に寄り添うしかない。

私はどんな時も姉の味方になる覚悟で、

電話で定期的に話しを聞く機会を持つようにしました。

病気で孤独に追いやられないためにです。

 

 

 

【姉の心の傷を知る】

すると、私ばかりでなく姉にも

幼少期から深く胸をえぐられるような傷が

あったことがわかりました。

私よりおとなしく、要領の悪かった姉は、

いつも何かにつけ母から怒られ非難されていました。

私は母への恐れから

期待に沿うような優等生として振る舞っていたのですが、

姉は母の期待に沿うような子供になれず、

自己否定の中にずっといたのです。

学校でもいじめられ、家でも居場所のない姉は、

小学生の頃からすでに死にたい気持ちを

抱えていたことを初めて知りました。

気持ちが消耗し続け、病気がちになるのも

無理のないことでした。

そうして大人になった現在でも

病気とともに人生を過ごしていますが、

決して姉の本意でないことは確かです。

ただ、何らかの人生の困難に直面すると、

もともとの自己否定が高じ、

意に反して体に病気として現れてしまうのです。

私は姉の心の痛みを聞き、

姉にも自分の心を開いて

会話をするようになりました。

 

 

【姉の心境の変化】

すると、姉の気持ちにも変化が現れてきました。

寝ている時間以外は全身に痛みがある中で、

痛みは人生の伴走者と思えるようになったことです。

それまで痛みを拒絶し続けていたけれども、

除ければ除けるほど痛みは襲ってくるそうです。

しかし痛みは取り除くものではなく、

人生の伴侶のようなつもりで

上手に付き合っていくものと考えると、

逆に痛みはあまりひどくならず、

自分のできることをしながら生活できるというのです。

また、痛みがあることで、

人生の優先度がわかったとも言っています。

これまであまり必要のなかった人付き合いや他者の目、

完璧にこなそうとした家事など、

生活の中で要不要を見分け、

不要なものは捨てざるを得なくなった。

それが、むしろ気持ちを晴れやかにしてくれる

とも言っています。

そして、何よりも感動したのが

「子供のために生きるのではなく、自分のために生きる」

と言い切ったことです。

まだ小学生の子供がいる姉が、

生きる意味、自分の存在の意味を

「子供のため」と言ってもおかしくないはずです。

ですが、

「誰かのため、と思って生きる人生は、

その人の本当の人生ではない。

結局その『誰か』に寄り掛かる人生になる。

自分のために生きることが、

結果的に他者のためにもなり、

自分の人生を全うすることになる」と、

難病で体の苦痛も心の傷もある姉が、

そう自分で言ったのです。

私は深く感動し、逆に生きる勇気をもらいました。

 

【どのような状況でも自分の価値や力を信じる】

私はこれまでの経験から、心の傷や病気など

人生のどんな困難にある方でも、

現在その人がどのような過酷な中にいても、

その人自身の価値や人生を生きる力は、

必ずあると信じています。

誰もが自分自身の存在の価値を実感し、

自分の力を信じ、

「自分の人生を精一杯生きられた」

という思いで人生を締めくくれるような

社会にしたいと考えています。

 

私の長いプロフィールをお読みいただき

ありがとうございました。