今回は、日常ブログのような番外編になります。
よろしければどうぞお付き合いくださいね。
私は毎月カウンセリング仲間と練習会を行っているのですが、
その一人、Tさんとのやり取りでのことです。
話して下さったことは、
言うなれば、Tさんの人生をずっと悩ませるものでした。
何年も何十年もそのことで悩み苦しみ続け、
出口も見えないままの状況です。
ひとしきりTさんは語り
私は傾聴を主体に聞かせてもらっていました。
Tさんが最後にこう言いました。
「これも全部、神様の御手の上で見守られているんだよね」。
Tさんはクリスチャンです。
私はそれを聞いて、何か急にスイッチが入ったように
苛立ちのような怒りのような感情が湧いてきました。
「見守りって!?
神様だったら、こんなにずっとずっと苦しんでいるのに
見守っているだけなんておかしいんじゃない?
神様だったらもっと助けてよ、って思わない!?」
と食ってかかるように思わず言っていました。
電話越しのTさんは困惑したような様子でしたが、
Tさんは自分の手のひらを見つめながら言っていたというので、
私も同じように自分の手のひらを見つめました。
上にはゴマ粒くらいの大きさの
もがいているTさんがいるのを想像してでです。
すると、自然と心理ワークの一つである
「空椅子のワーク」を行っているような感覚に
自分がシフトしていきました。
空椅子のワークというのは
人間関係においての悩みがある時に、
自分・相手・第三者の立場に自分が完全になり切って
物事を見たり感じたりするワークです。
それぞれの立場に立ってみることで、
今の自分からは見えない視点を持つことができるワークです。
それゆえ、新しい気付きや視野の広がりが感じられ、
こう着していた関係性の解決につながりやすくなります。
私の大好きなワークの一つです。
私は、ワークのことは全く意識していなかったのですが
いつの間にか、あたかも「神様」のような目線になって
手のひらのゴマ粒くらいの
もがいているTさんをじっと眺めました。
すると、苦しんでいるとわかっても直接手を出せない
もどかしさ、心苦しさを感じるような気がしていきました。。
そして「見守る」と言っても、ただぼんやりしたものではなく、
苦しんでいればいるほど心が痛みます。
ましてや自分(神様)が作った命が
こんなに苦しんでいるのだとしたら、
手を出せないだけに、より一層苦しい思いをしているのが
神様の心境ではないかと感じられました。
決して傍観し、他人事のように上から眺めているわけはない。
一緒に苦しみ、涙を流しているはずです。
そして昼も夜もなく
手のひらの上で苦しんでいるTさんがここにいるとすると
何もできないゆえに、こう伝えるのではないかと感じたのです。
「ゆっくり休んでほしい。眠ってほしい」と。
眠りという休息は、そのひとときだけ苦しみから解放されます。
看護師としての立場の時は
よく患者さんや利用者さんにしっかり眠れているかお聞きし、
睡眠がいかに大事かお伝えしていましたが、
この時は看護師の立場としてより、
神様の目線でそのように伝えたくなりました。
なぜなら休息による安寧は
心のエネルギーを回復させるからです。
スピリチュアルな領域では
眠りは魂がいったん天に戻りエネルギーを充電するといいます。
余談ですが、私はこれまで看護師として
亡くなられてお見送りさせていただいた方が百人以上いました。
お送りする時はいつも
「お疲れ様でした」という言葉が自然とわいてきていました。
何十年も人生を生きるというのは本当に大変な仕事であり、
最期までよく全うされたと心から思うからです。
だからお亡くなりになった場合は
魂はずっと安寧でいられると思いますが
生きている間は「ずっと安寧」というわけにはいきません。
ですから「眠り」という
ひとときの休息の時間を得る必要があるのです。
そうすることで、気力も体力も蘇ります。
魂が、天の休憩所で充電したと感じてもおかしくない感覚です。
別な例えで言うと
子供が公園で遊んで転んでしまった時
お母さんになぐさめてもらい、
元気を取り戻してまた遊びに戻るといったイメージです。
公園で遊んでいる我が子を見守っているのが親である神様です。
転んだ時、友達とけんかした時、疲れた時は親の元に戻り
なぐさめて抱っこしてもらう。
そんなことを繰り返しているのが日々の睡眠、
その積み重ねが人生ではないかと思うのです。
電話越しのTさんに
上記のような思いになったことをお伝えし
「薬を使ってもいいからよく眠ってくださいね」
と声を掛けました。
Tさんとのやり取りで、私にとっても思わぬ形で
不思議な体験をさせてもらえました。
そしてついでながら私自身も
辛い時でも一人ではなく
知らないところで同じように
一緒に辛さを感じてくれる存在がいるのではないか
だからこそ、いつのまにか立ち上がって
曲りなりにも人生を歩んでいるのではないかと感じられました。
最後までお読み下さりありがとうございました。