本物の愛が出せるようになるために

 

今日は「愛」についてです。

愛には本物と偽物があります。

愛のようでいて愛じゃない、

偽物の愛は「自分の我」「エゴ」です。

以下は精神科医 泉谷閑示先生の著書

『「普通がいい」という病』からの抜粋です。

 

成熟した本物の「愛」だけを「愛」と呼んで、

そうでないものは「欲望」としてしまった方が、

より両者の違いがわかりやすいと思うのです。

そこで私は次のように「愛」と「欲望」を定義したいと思います。

愛とは相手(対象)が

相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。

欲望とは、相手(対象)が

こちらの思い通りになることを強要する気持ちである。

 

身につまされる言葉です・・・。

 

どうしたら本物の「愛」を出せる

存在になれるのか。

それが難しいところです。

愛の存在とはどういうものか

泉谷先生はあるお話を作って私たちに考えを促しています。

内容を簡単にお伝えしますと

 

ある旅行者が貧しい国の飢えた物乞いを目の当たりにして

何か施しをしようとした。

ちょうど5本のバナナを持っており

自分は3本食べられればお腹がいっぱいになる。

ただ、物乞いが気の毒に思えたので

食べるのは2本に我慢して

残りの3本を物乞いにあげた。

すると物乞いはお礼も言わず、

バナナは嫌いだからと道に投げ捨ててしまった。

 

というお話です。

バナナをあげた旅行者は

どんな気持ちになったでしょうか。

この様子を見て怒り心頭になったことでしょう。

せっかくバナナをあげたのに恩知らず、

というわけです。

 

ここで、旅行者がバナナを3本食べて満足し、

残りはどのみち暑さで腐ってしまうだけだ、

自分で持っていても捨てたはずだ。

そう思うなら、物乞いが捨てたとしても

そう腹は立てなかったでしょう。

我慢してあげた1本の違いが、

感謝という見返りを期待してしまっている

「偽善のバナナ」です。

それは善い行いのように見えて、

やはり「欲望」です。

すなわち

「感謝してほしい」

「善い人と思われたい」

「善いことをしたという自己満足がほしい」

などという「欲望」です。

 

 

 

 

一方、「たまたま余ったので

捨てる代わりにご自由にお役立てください」

という場合は、

仏教でいう「喜捨」

つまり”喜んで捨てる”という行為に相当します。

これが「欲望」を捨てられない私達にできる

嘘偽りのない「愛」の行為だということです。

 

人間として成熟すると、

自分で食べるバナナも1本で満足するでしょう。

その場合、喜捨できるバナナも

4本と多くなります。

でも、3本食べたいのに

やせ我慢して行動した時

どこかでひょっこり「欲望」が顔を出すのです。

 

 

お恥ずかしいのですが先日、

私にも似たようなことがありました。

仕事で落ち込んでいる後輩から

食事に誘われて行ったのです。

その時に相手といろいろな話しができて嬉しかった私は、

このような機会をもらえたお礼も兼ねて

食事をおごらせてもらいました。

ところが、数日後会ったときに、

特に相手から何の言葉もなかったことで

少し心の中がモヤモヤしてしまったのです。

相手は自分の仕事のことで頭がいっぱいで、

それどころではなかったのはすぐわかりましたが、

何か引っかかるものが残ってしまいました。

 

私はその時に、この話を思い出し

自分に照らし合わせました。

私にとって出せるバナナは本当は二本だったのに、

気分が高揚し

後輩にいい顔をしたくてご馳走していた

それは相手のためにというより

自分の優越感のために

行っていたものでもあったのだと後で気づきました。

相手に対して後でモヤモヤがくるということは、

本物の「愛」の行為ではなかったのですね。

 

自分にとっては残念な気づきですが、

次はそれを認める作業です。

私にとっての愛は、その後輩に

ご馳走してあげられるほどの大きさではなかったのだ

ということを認めるのです。

これは自分を理想化している場合、

とても惨めに感じるものです。

でも、その惨めさをも認めていくのです。

 

「後輩にいい顔をしたいだけだったんだ」

「見返りに感謝をもらいたいって思ってたんだな」

「私の愛ってそう大きくもないんだな。我ながら残念だね」と。

ちょっとつらい気持ちになりますが

そんな自分を認めていくことで、

等身大の自分自身に出会えていくのです。

 

 

 

 

相手に対して出てきたモヤモヤや

不快な気持ち、ネガティブ感情とは

結局は相手を通して出てきた自分自身なのですね。

自分を認めることができると

このような自分に気づかせてくれた

感謝の機会ともなるわけです。

 

 

次に、愛が少なかろうが

相手に何も出せなかろうが

等身大の自分でいていいんだよ

自分に愛を与えていくことです。

 

等身大の自分を認め、

それでいいと許すこと。

それが自分を育てていくことであり、

結果的に人に対する愛も出せるようになっていく

プロセスのひとつとなっていきます。

 

 

そして、「愛」を育てるために

私達ができることを

泉谷先生も教えてくれています。

それは

 

逆説的ですが、

まず自分をきちんと満たしてやること

 

とのことです。

自分が満足することを

たくさん経験させてあげるのですね。

さらに続きます。

 

ところが面白いことに、

人間は自分を満たしても

必ずいくらかは余るように出来ている。

この余った物を使ったときには

「愛」の行為になる。

(中略)

生まれたての赤ん坊は

バナナを)5本食べなければならない。

フロムのいう「未熟な愛」です。

しかし、その後の成長によって

自分に必要な本数は

少しずつ減っていくのです。

生きているうちに何本にまで減らせるのか、

それはその人にかかっているわけです。

 

とても前向きになり

かつ、身が引き締まる言葉ですね。